meiko再生日記。

双極性障害Ⅱ型。社会復帰ハジメマシタ▶︎再生

MENU

【寄稿記事】カミジョーの寄稿砲2 人生の新しいステージに立つには

今回は私、meikoではなくカミジョーさんからの寄稿記事をお送りいたします☆

 

f:id:pm536:20190113014646p:plain


カミジョー
寄稿砲、第二弾!

第一弾は、

 

https://hani-taro.com/twitter-planning/

 

ハニ太郎さんのサイトへ

「Twitter企画初心者向けにその種類と始め方を完全解説します【1万文字超え寄稿砲】」

というお題で記事を書かせていただきました。

 

そして今回の第二弾は、meikoさんからのお題についてお応えし、

寄稿記事を書かせて頂きたいと思います。

 

1.

どのようにして、 今の上條さんの前向きでステキな精神が作り上げられていったのかということを読んでみたいです。

2.

わたしはブログに出会った事が大きな転機です。 ブログ歴7年とのことで、ブログを始めた事も転機だったのでしょうか?

 

わたしのブログを読んでくれている方は精神のお悩みを抱えている方も多いです。 わたしだけじゃなく、読者の皆さんにも希望の道筋となるようなエネルギーを頂けたらうれしいです。

 

寄稿文、第二弾は、

 

meikoさんからのお題について書かせていただきたいと思います。

早速寄稿文を書かせていただきたい旨をお伝えした所、

寄稿記事の内容に関するいくつかの質問をいただくことができました。

 

「どうしてこんなにポジティブに考えられるんだ?」

「最初からポジティブだったの?」

「失敗や挫折はないの?」

「子供の頃や思春期もポジティブだった?」

 

後ろ向きな考えが根付いてしまっている私の立場から、前向きで素敵な方を見ると憧れる気持ちと同時に色々な疑問が湧きます。というわけで、単なる自己啓発記事ではなくて、 幼少期〜現在に至るまでの転機や考え方、生き方を知りたい!と思ったのです。

 

というわけで

今回の寄稿記事については

 

1.カミジョーの半生について

2.教職員時代の上條

3.ブログを始めた転機について

この3本立てでいきたいと思います。

 

 

カミジョーの幼少期から大学時代までを振り返る

カミジョーのこれまでの人生を振り返ることはたまにあります。

そんな僕の記憶の中で一番昔の記憶。

それは保育園のときに母が車で迎えにきてくれた安堵感。

そして、親子参加型の運動会で、転んでしまった僕をかばってくれたお母さんの優しさ

 

僕という人間の一番古い記憶をたどると決まって出てくるのが

母との思い出。

 

1980年に長野で、生まれ

今振り返れば家族に大切にされ、

至って普通な環境で生活をしてきたのだなと思います。

 

保育園は、早くお迎えがきてほしいという寂しさが強い記憶として残っており

小学校では、水泳が苦手で、また勉強もできたわけではないし、

コミュニケーション能力も人並み以下だったと思います。

 

中学生、初めての受験や部活

新しく広い世界に出てちょっとだけ多くの事を学びましたが

振り返っても、特に特別な思い出がないのが小中高校時代。

 

そして、その後、愛知の大学へ進学しました。

 

きっと振り返ってみると

「こういうことをしたい」

「こういう分野に自信がある」

「将来はこういう風になりたい」

という夢もなく、

 

人生を深くも考えずに

ただ一日一日を消費していた幼少から学生時代だったなぁと思います。

 

突き詰めて考えれば

もっと自分の中のなにかを高めたり、

情報を収集したり、

資格をとったり、

夢を友達と語ったり

としていけばよかったのですが、

それが僕には欠けていました。

 

「生きている」というよりも

「なんとなく生かされている」ようなそんな

ボンヤリした感覚。

 

 

中学生からの僕の悩みとしては

「父が何度もリストラや退職を繰り返し家にずっといたこと」

「お金の心配」

「働かない父と仕事を掛け持ちして家計を支える母との夫婦げんか」

 

もっと仲良く強力し合えばいいのに、

毎日飛び交う心ない言葉や母の涙を忘れることは一生できないでしょう。

 

今の僕が喧嘩をしたがらない

相手の言うことに折れた方が平和と考えてしまうのもそこら辺の苦い苦い記憶が原因なように思います。

 

 

そして、大学時代の記憶は

「バイトを掛け持ちしてほとんど学校にも行かず」

「バイトという環境で楽しさや大変さを痛感し」

「お金というものについて考えさせられたこと」

ココらへんが大きいですね。

 

実際に、0歳から22歳までのカミジョーというものを紐解いても

特別な「ポジティブさ」も「成功体験」も「前向きさ」も「自己肯定感」もありませんでした。

 

ネガティブとは言いませんが、

自分という人間とその環境に対する劣等感、

そればかりな青春時代でした。

 

しいて言えるのは

 

「もっと僕自身に力があれば色々な状況を変えられたのに」

「いつも何かを助けるだけの力もなく悔しい思いをしてばかり」

という自分の非力さに対する嘆くばかりでした。

 

カミジョーの社会人生活を振り返る

そうこうしている間に就職活動をしていきました。

もちろん、そんな生き方をしてきたので、就活に対しての意識が高いわけもなく、

働くとはなんだろう?

僕に何ができるのだろう?

学生時代はバイトというある種そこまでの責任を負わない環境だったのだけど

社会人て怖そう!果たしてなれるのだろうか?

 

と選考試験も途中でイヤになってしまい、

よく選考などをサボったりしていました。

 

しかし、学生のモラトリアムというものも永遠には続きません。

 

ある日、「企業合同説明会」で出会った人事担当のおじいちゃんの一言

 

「君でもできる!!!」

 

という言葉に元気をもらって、

長野県のとある学習塾へ就職することとなりました。

 

もちろん、小中高校大学と

偏差値が高い生き方をしてきたわけでも

家庭教師のアルバイトをしたわけでもなく、

 

 

そして

「怖い上司」

「話を聴いてくれない生徒」

「突然の退塾希望」

「終わらない仕事」

とこれまでのゆるかった学生生活とは大きく違い、

 

社会人としての未経験さと

仕事がうまくいかないストレス

会社での人間関係

 

と入社して数年は環境に適応できず悩みが尽きない毎日でした。

 

ちなみに労働環境をちょっとだけ書いてみると

・週休1日

・労働時間は13:00~翌日の3時まで

・残業代なし

・14年間働いたけど手取り21万が最高額!

・夏休みも年末年始もなし

・上司に意見を言えないようなトップダウン型の企業

・ワンマン

 

そんな労働環境でした。

 

転機は、

とある教室で中学3年生を教えたことです。

 

これまでは、生徒と僕の間に分厚い壁を僕は作ってしまい、

都合の良いセンセイという立場で自分を守り

そして心を通わすこともしようとせずにやってきたのですが、

 

その生徒は言いました。

 

「センセイの事を信頼するから、合格させてよ!」

と。

 

この言葉が僕にとっての大きな転機でした。

 

そうだ僕自身がやるべきは目の前の生徒の合格であり、

自分の保身やサラリーのためにこの仕事をしているわけではない!!!

 

と一つのなにかが僕の中で吹っ切れることができ

そこからちょっとだけ生徒に対しての距離感が近くなりました。

 

 

「センセイとして必要とされることの嬉しさ!」

 

これが僕を変えていったのでしょう。

 

僕は、プライベートではカミジョーというただの男であっても

ここでは、カミジョーセンセイとしてきちんと子供たちの夢や希望を叶えるために

”二人三脚”でやっていかなくてはいけない!

 

片足をいつでも逃げられるような位置に置いているうちは

誰かときちんとした関係性を築けるわけがない!

ということに気が付き、

 

そこからは懸命に僕なりですが、

熱というものが心に灯り、仕事ができました。

 

 

それからも何年も何年も

生徒を送り出し、

 

そして新しい生徒がやってくる!

そんな生活がずっと続きました。

 

僕という存在が必要とされ

そして誰かの夢を自分も共有できて一緒にがんばれる楽しさ!

それが

ただのカミジョーを一人のセンセイと成長させてくれたのだと思います。

 

 

 

カミジョーの母の死

しかし、とある日

急に母はくも膜下出血でなくなってしまいました。

突然でした。

最後の言葉を交わすほどの回復もなく

ある日、僕の肉親が天国へ行ってしまったのです。

 

人生、それまでの30年間ほど突っ走って

突っ走って

突っ走って....

 

とやってきましたが

 

結局のところ、

僕の人生についても顧みることはほとんどなく

日々に追われていきました。

 

 

母の死というものがそんな生き急ぎ、視野を狭くしていた僕の人生を一旦停止させてくれました。

 

「果たしてこの生活でいいのだろうか?」

 

「仕事だけの人生で後悔はないのか?」

 

「これが僕のしたいことだったのだろうか?」

 

確かに僕はここで

センセイとしての自分の存在意義を見つけることができましたが

しかし、

僕のしごと以外の部分は空っぽです。

 

一日が始まれば仕事のみに心は奪われ

週一回の休日は疲れを癒やすために夕方くらいまで寝てしまう

 

それでは、きっと僕の人生=仕事

という図式で終わってしまうのだろうと

 

母の死を一つのきっかけとして

僕は人生にはいくつも選択肢があることに気が付きました。

 

「この仕事をやめても違う生き方がある」

「仕事をやめても僕の人生が終わるわけではない」

「探していないだけ。知らないだけ。」

 

そんな単純なことに気が付きました。

 

しかし、薄給とは言え

毎月もらえたサラリーがなくなるのが怖い

ずっと長年教えてきた生徒を見捨てるのも心苦しい

 

と身辺整理をスタートさせ

それから3年後、僕は仕事をやめることにしました。

 

34歳の春でした。

 

教育者として過ごした14年間を総括すると、

 

「人は使命感によって成長する」

「仕事とは誰かの人生の一部を共有することで覚悟が生まれる」

「誰でも、きっと誰かになにかに必要とされるそんな役割が待っている」

 

ということを僕は学びましたし、

 

たまたま、教育者としての僕を必要としてくれ

信じてくれた素直な生徒がいたからこそ、

 

振り返れば「天職」だと思えるそんな教育者としての期間を過ごせたのだと思います。

 

しかし!

自分の人生を安く薄めて、

サラリーの代償として抵当にかけるわけにはいきません。

 

それは非常にもったいない事です。

 

僕は自分の人生を改めて買い戻してみようと考えて

 

その後、僕は独立をするわけです。

 

カミジョーとブログとフリーランス

丁度仕事をやめようと思い立った2012年から僕は

WordPressというものをスタートさせました。

2012年からの僕は週一日の休みは東京に出向き、人脈を作ったり、交流会を開催したり など、

人生を変えるために出来ることをスタートさせていました。

 

そんな時に出会ったのがWordPressです。

 

サイトを運営し、自分の思いも発信できて

なおかつ収益化もできてしまう!

という魅力を感じて、

2012年から仕事をやめた年まで毎日仕事が終わってはパソコンを立ち上げ

記事を更新!

ちょっとずつ増えていく収益よりも

WordPressというものの楽しさと

TwitterなどSNSで多くの人と出会うことができました。

 

実際に関東や関西ではオフ会も開催し、

直接お会いできた方も大勢おります。

 

僕自身、2012年まではWEBの知識や環境はこんな感じでした。

・WordPressもちろん知らない

・ちょっとだけホームページビルダーをいじったことがあるくらい

・パソコンが好きなわけでもない

・なにかに詳しいジャンルがあるわけではない

・ライターでもない

・自分が使えるネット回線もない

・html css phpの知識もほぼない

 

つまりは初心者です。

 

それでも、WordPressという言葉の響きと

またこのWordPressから発信し、ちょっとずつ反響が大きくなってきたこと

誰かとSNSでつながることができたこと

そんなことの積み重ねにより、

僕はWordPressがとても好きになりました。

 

しかし、経験はありません。

SEOもわからないし、

ただ自分が発信したい情報を発信しているだけ

そんな日々が続きました。

 

そんなある日、

ちょっといつもと違うアクセス数な日を体験し、

 

いわゆるバズというものを経験することができました。

 

これもWordPressというかサイト運営の面白さの一つだなとは思いましたが、

 

僕が2012年から一環してやっていること・やりたいことは

 

「がんばっている誰かを応援したい!」

という部分でした。

 

大した紹介記事も書けない当時でしたが

色々な人にインタビューしてみたり、

ネットで調べたりして記事を作っていく。

 

そして書いた記事を喜んでもらえることが

何度かあり、

 

「ネットにしても、サイトにしてもこれって誰かを笑顔にする力があるんだ!」

という実感が更に僕をこの世界の住人にさせました。

 

そして、3回ほど炎上などを体験し、

SNSもウェブもやめたいと思うようなこともありましたが

 

オンラインとオフラインをつなぐ一つのツールとしての

WebやWordPressという世界に

毎回戻ってきてしまうのは、

きっと僕がここでまだやり残したことが多々あるからなんでしょう。

 

 

そして時は流れ、

あれから6年が経ちました。

 

気がつけば作ったサイトは30以上。

書いた総記事数も4000を超えていました。

 

しかし、2018年の12月、僕は人生37年で最も大きな落ち込みと、体調不良、

そしてそれにともなく人との離縁を経験し、

3ヶ月ほど何も活動ができないようなそんな状況でした。

 

2018年の4月くらいにようやくちょっとだけ復調し、

気がついたら今までに僕が築いてきた人間関係も9割ほどが疎遠になってしまっていました。

 

つまりは、

またイチからのスタートです。

 

そんな時に僕は思いました。

 

「6年のノウハウを活かして今度は何ができるだろう?」

 

確かに自分で運営していくのも楽しいし、

一人でやれば、煩わしさも人間関係の悩みもなく

自分のペースでやることができる

 

でも、僕がそれまでの37年間を生きてみて

一番やりがい、そしてを感じたことってなんだろう?

 

そう考えると、

 

それって結局「教育者であること

 

ここに帰ってきました。

 

それは母が亡くなってしまった時に感じた死生観や

人生、死というものは避けられないし

死を迎えたら、今積み上げているものや大切にしているものを

死後の世界に持っていくことはできない。

 

ゼロから始まり、ゼロに戻る

 

ゼロに還る、それが人生

 

って考えたら、

 

僕が残りの時間でやるべきことって

 

「次世代の思いある人財を育成していくこと」

 

自分が死しても、教育という世界で

誰かに自分の想いや今までの経験値というものを託す

または渡すことはできないだろうか?

 

と考えました。

 

2018年9月からオンラインサロンをスタートさせ、

従来のオンラインサロンのような

トップダウン形式ではなく

「学び舎」「寺子屋」のような

そんな空間をつくって

そこで誰かを育ててみたい!!!!!

と思って、

 

9月、10月、11月、12月、1月と

気がつけば5ヶ月目に差し掛かっています。

 

併せて

SNSの使い方についても

丁度この9月を機に変化していきました。

 

「自分の中にあるものを発信していきたい」

「想いも考えも届けないと相手にも誰にも伝わらない」

「SNSでも誰かの背中を押せるようなそんな存在でありたい」

 

って考えてみて

次第に発信の質や内容、

SNSとの接し方や距離感が変化してきました。

 

 

言葉というものは、

それが教育の場であれ

友達関係であれ

仕事であれ

 

そこには何かしらの力が宿り、

届けた相手に何かしらが残るもの

 

それが言葉だと思います。

 

ここまで書いてみて

一つ僕自身がわかった結論としては

 

「人はそうなろうとしているものになって行くことで成長していく」

 

「人はたどり着きたい場所に行きたければ、自分でそこまでたどり着くしかない」

 

「他人がそこへ連れてってくれることはない」

 

「自分の足で踏み出すしかない」

 

おそらく

今のカミジョーという人間の思考や人生観というものは

最初からあったものでもなく

長い時間と様々な経験を経て生まれてきたものだと思います。

 

そして、きっとこの今の僕という存在や思考というものも

それがこれからも続いていくのではなく

今後も更に変化していくんだろうなと感じます。

 

また

昔から

2019年1月現在のカミジョーのような人間像になりたかったのか?

 

と問いかけると

 

これはこれで、

「偶然の産物」

であり、ここを目指してきたわけではない

たまたま

偶然や選択の連続から

幾つかの分岐点を経て

今生では、偶然にもここにたどり着いたに過ぎないのだろうなと思います。

 

もしも、

また0歳からやり直しができたとして

今と同じ、寸分違わないルートを歩める自信もなければ

きっと違う選択をして、違う自分になっていたのだと思います。

 

 

そう考えると、今生において

今の僕であること

そういう意識を持てるという事は非常に幸せであり、

また嬉しいことだなと思うわけです。

 

少なからず、人は誰かに影響をあたえ

また自身も誰かの影響を受けて、常に変化していきます。

 

それが意識に残る影響もあれば

名前も知らない誰かの一言なのかもしれません。

 

僕は今のカミジョーが好きです。

 

きっと違う選択肢も沢山会ったと思うのですが

僕は今の僕で在れてよかったなぁと思います。

 

そんな事に感謝していくと

きっとね、更にもっとその向こうにある僕という存在と会えることができるのではないかな?

と思わざる得ないのです。

 

きっと選択の連続で

今生、出会えた人

今生、出会いたかった人

今生、出会えなかった人

 

いると思います。

 

それでも、この人生で大切な人に出会え

様々なことを教えてもらい

言葉には言い表せない感情を体験し

そして些細な一部分でも誰かの役に立てる人生だった。

 

そう思うと、

これまでも今もこれからも

きっと無駄なことなんて一つもないんだなって思いました。

 

すべての出会いや

すべての体験に

そして全ての人に

今という時間に僕はありがとう!!!!って言いたいですし、

感謝ができる今があって本当によかったなぁと感じています。

 

寄稿の最後に

寄稿の最後になりますが、

 

今回の記事をすべてまとめて

僕がこの寄稿記事で伝えたいメッセージというものをまとめておきます。

 

 

「誰しも何歳でもどんな環境でも無限の可能性を秘めている」

「人はそのこころの中に無数の輝く星を持っている」

「その星は目覚める時を待っている」

「人はその人生で何かしらの使命ややるべき事がある」

「ライフミッションを見つけられる(気づける)かは自分次第」

「出来事に良しも悪しもなく、今生でそれは自分が体験したかったこと」

「どんなに辛いことや、もうダメだなと思うことがあっても人生はそれでもなお多くの幸せを内包している」

「自分が経験した事は、きっと自分のためではなく誰かの役に立つために体験している」

「一つの出会いが、また別の出会いを呼んでくれる」

「どんな景色、出来事も見る角度を変えてみるとみえ方が180度変わる」

「ありがとう。を起点として、人生でどのくらいのありがとうが言えるのか考えてみる」

「人生は有限」

「いつかは必ず終わりが来るけど、それは今ではない以上...」

「今を大切に生きないといけない」

「人は変われる」

「人はもっと優しくなれる」

「人は今が限界点ではない」

「人はきっと誰かに出会うために生まれてきたんだと思う」

「人生を懸けられる程の人に出会ったら出来る限り大切にしたい」

「一期一会を忘れない」

「今まで出会ってきた人のことを忘れない」

「最後に、自分という一番の友達がすぐそばにいつもいることを忘れない」

 

僕の拙くそして平凡な人生を顧みて

そして僕が声を大にしていいたいのはここら辺です。

 

この寄稿記事を読んでくださった方、全てにありがとう!

そして、寄稿の機会を与えてくれたmeikoさん、

ありがとうございます。

 

次回は、

meikoさんにもっと突っ込んだ10の質問について僕なりに解答していくっていう寄稿をさせてもらえたら嬉しいです。

 

今回寄稿記事を書いたカミジョーとは

カミジョー

1980年12月生まれ

好きな言葉は「人生は常にやるか、楽しんでやるかの二択」

2002年から14年間教育者として生徒を指導するが

母の死をきっかけに独立

現在はフリーランスとして

行政とのサイト運営

コンサル

オンラインサロンの運営

ライター

ブロガー

WordPress教室の講師

として活動をしています。

 

好きな映画は

・グッド・ウィル・ハンティング-旅立ちー

・サマーウォーズ

・ファイトクラブ

・カーズ3

・オデッセイ

・キャスト

・アウェイ

などなど

 

寄稿を依頼される方は、

https://twitter.com/MinatoWorks

こちらまでどうぞ

meikoから

カミジョーさん、素敵な記事をありがとうございました!

なんと8522字のプレゼントでした…。

 

内容はもちろん、文章の書き方など、本当に学びが多い記事です。

 

この記事を受けて自分はどうなりたいかと感じたこと、

そして、プロのライターさんの文字に触れて受けた刺激について、

後日ブログにアップしたいと考えています。

 

私のブログに遊びに来てくださる皆さんにとっても学びや刺激がありますように☆